熱き情熱

2018年の年末に思う

今年はこの10年間での大きな転換期となった。

転換の一番の象徴的なことは、2007年から思いを込めて取り組んできた日本全国の殻付き牡蠣のお取り寄せサイト「旨い!牡蠣屋」を手放したことだ。震災後の三陸牡蠣復興関連のプロジェクトも、かき小屋も、オイスターフェスティバルも全ての原点は、その「旨い!牡蠣屋」だった。

そもそもその「旨い!牡蠣屋」を手放すキッカケになったのは、新規事業の失敗と既存事業の停滞だった。まさに2007年のITベンチャーのときに、自社のITサービス事業が失敗し、既存の受託開発でも大赤字になって、30人の社員が2人になったときと同じようなことに近かった。

僕は、何度、同じような過ちを繰り返すのだろうか。いや、そうではない。僕は、成功するための試行錯誤を繰り返している、1つひとつのプロセスを経て大きな成功に近づいていると思っている。逆に言えば、もし僕が、小さな成功で満足するような人間なら、2007年と今年2018年のような急激な事業縮小はなかっただろうと思う。

ところで、地方のソフト開発会社の実態は、派遣が多い。そしてまた、そのヒエラルキーにおいて、下請けはおろか、孫請も多く、常に元請けの顔色をうかがい、社員を派遣している。ITベンチャー当時、僕はその構造を変えたかった。自社でつくるITサービスで、派遣や受託開発に頼らないモデルを構築したかった。社員が自分の会社に出社し、誇りのもてる会社にしたかった。

きっと、小さな成功を目標にしていたら、ほどほどの受託と派遣だけで、満足していただろう。30人もいれば、会社も安定していただろう。しかし、僕はそういう選択はしなかった。とは言うものの、派遣慣れしている社員は開発力も低く、面白そうなITサービスを作っても、マネタイズのところでピント外れ。何よりも、それを取りまとめる経営者(僕)がスキル不足、努力不足だった。結果、目標達成はできず、そのまま事業譲渡を行って縮小、牡蠣事業に転換することになった。

この僕のブログでは、いかに牡蠣事業を愛しているかを書いてきたので、改めて牡蠣への思いを書くまでもないが、僕にとって、残った牡蠣のオンラインショップを日本一にしようと思って動いたころから、僕にとって「牡蠣」の存在は特別なものになった。そして、震災で壊滅した三陸牡蠣業界を震災前よりも遥かに素晴らしい業界にしようと動いてきたものの、僕自身のスキル不足、努力不足で、結果、今年のようになってしまい、核であった事業すらも手放す羽目になり、震災前よりも遥かに上を目指すことは道半ばとなった。

しかし、僕は思う。

これもまた、僕にとって、お金には変えられない貴重な「経験」を得られたという事実。そして経験によって新しい方向性も見えてきた。それは、2000年の創業から2007年までにITベンチャーだった時代、2007年から今年2018年までの牡蠣専業だった時代があったからこそ描けるものとなった。

僕には、小さな成功はいらない。

だからこそ、こうして試行錯誤を繰り返し、いつまでもウダツが上がらないけれど、僕はあくまで大きな成功を願う。僕にとっての大きな成功とは、多くの地域の人々を幸せにすること、に尽きる。ある三陸の、ある町の牡蠣産業を手伝って、その町が活性化して、良かった良かったと思えることは、さほど難しいことではないと感じているが、しかし、三陸の町、北海道、本州、九州、ひいては、ベトナム、アフリカ、南米、世界中の町でそれを実現することは、容易いことではない。ましてや、牡蠣産業、水産業だけではなく、農業すらも、関わりたいと思っているのだから、普通の人から見れば正気の沙汰ではない。

それでも僕は、あくまで大きな成功を願う。

なぜなら、第一次産業は「命を守る産業」であり、今後はそれをテクノロジーや仕組みで支える必要があるし、僕にはそれに貢献できると思っているし、何よりもそこに僕自身の「使命」があると感じている。人から何と言われようと、そんなことは関係ない。そういう人と僕には、見ている景色が違う。

僕にはできる。

そう改めて決意し、この2018年を終えたい。

どうせ撮るならシャキッとしたマシなところをアップすればいいのだけれど、今さらカッコつけてもしょうがないし、ありのままでいいかと思い、襟も寄れているのもなおさずに。新オフィスにて。