フィロソフィー

人を見るモノサシ

人を見るモノサシは、人によってさまざまだ。
それこそ、人それぞれモノサシが違うからに他ならない。

先日、ある方から教えていただいたこと。
それは、

「人によってモノを見るモノサシが違う。そこで自分のモノサシで人の言動を見るから理解できないんだ。まずはみんなモノサシは違うんだ、ということを知ることから相手への理解が進む。」

というような内容だった。

そう言いながら、僕の人を見るモノサシはこれだ。

「愛」

どんな知識を振りかざしても、またどんな地位、肩書、名誉、人種、言語、国、肌の色であっても、それらと愛は相関関係はないし、それらの要因とは関係なく、愛は普遍的なモノサシだと思う。

しかし、そこで注意すべきは、その愛にも、向き、範囲、そして強さの違いがあるということ。

つまり、愛が自分自身に向いている人もいる。また愛は自分の家族限定だったり、自分の住む地域限定だったりと範囲が異なる。そしてそれらの強さもマチマチだ。

どれが悪い、良いとは言えないと思うけれど、ただみんな、愛が自分に矢印が向いている人ばかりだと、世知辛い世の中になるだろう。

一方、世界中の人々の愛が、それぞれ自国だけの範囲にとどまれば、貿易戦争、経済戦争を引き起こしかねない。

といって、自分は世界に愛は向いている。世界への愛を中心に動いている、と言っても、自分の足元、つまり家族や地域への愛が不足していれば、それもまた生き辛さを自ら選んでしまっていると言える。

だから、自分にも愛を注いだほうが良いと思うし、同時に、自分のまわりや地域、自分が属する国へ愛を注いだほうが良いと思うし、さらには世界の人々への愛も大切だと思う。

しかし、誰でもそのように思えるものではない。

だからこそ僕は、人を見るモノサシは、知識量とか地位、名誉とかではなく、どれだけ広く、深く「愛」を持っている人かどうか、であり、たとえ、人助けが大事だ、地域貢献だ、障がい者を助けたいとか、なんとかだ、と言っても、根底にその「愛」が不足しているように感じたら、その訴えは本当なのかなと思ってしまう。

そう、それが僕のモノサシなのです。