三陸牡蠣復興

20年後のある老人の想い 〜 わがSANRIKUを想う 〜

日本が誇る景色を有するSANRIKU。
世界中から観光客が訪れるSANRIKU。
リアス式海岸が見下ろせる素敵なホテルのあるSANRIKU。

 

世界の牡蠣の半分は、ここSANRIKUの牡蠣の子孫だ。
そのSANRIKUには、世界に誇るOYSTERがある。

 

世界の人はSANRIKUのOYSTERをつくる本場に憧れる。
いつか、本場SANRIKUで、素敵な景色を見ながらOYSTERを食べることを夢見る。

 

SANRIKUプロムナードは、仙台から八戸まで続く散歩道だ。
SANRIKUプロムナードを、ゆっくり観光しながら1ヶ月以上かけて歩く人もいる。

 

SANRIKUプロムナードには、茶屋がありカフェがあり「かき小屋」が点在している。
その道の駅の小型版のような「かき小屋」には、牡蠣をはじめ地域の豊富な魚介類を食べられる。
基本ばら売りしている農産物や果物もところ狭しと並べてある。

 

三陸を走る鉄道の海側には、ところどころに桜の並木があり、桜の季節になると、電車はゆっくりと走り、乗客は綺麗な桜と、桜の背景に見える青い海との美しい景色に心が揺さぶられる。

 

「今までこんな景色見たことない。」
SANRIKUを初めて訪れる観光客が一番口にするフレーズだ。

 

SANRIKUの街は、どこでもクルマよりも歩行者優先だ。だから横断歩道はない。
クルマも市街地では時速30キロ以下で走行するし、手を挙げる横断者がいたら、必ず止まって笑顔で歩行者に道を譲る。年配者にはとても住みよい地域だ。

 

SANRIKUでは音楽が盛んだ。
かき小屋の周りには人が集まり、広場では世界中から集まったアマチュア音楽家が音楽演奏をして観光客を楽しませている。大道芸人も混ざっている。
中にはSANRIKUの観光をしながら、持ち歩いているマイ楽器で時々音楽を奏でる人もいる。

 

SANRIKUの街の郊外では、新しいビジネスが盛んだ。
波力発電や潮流発電の工場があって世界に設備を輸出していたり、非常に安全性にこだわった船をつくる造船所も世界に輸出している。
SANRIKUでは、国内はもとより、世界中を相手にしたビジネスが多いため、地方の疲弊とは無縁だ。

 

最近では、海の水族館が出来た。
水族館は人工的につくられた島の中にあり、実際の魚や生き物も直接見ることができるのだ。
沖にあるし頑強な構造体でもあるので、20年前のような東日本大震災のときのような津波が来ても大丈夫だ。

 

今は、2031年3月11日。

あの悪夢のような出来事からちょうど20年が過ぎた。
僕は2011年3月11日、石巻で被災し、家も津波で流された。

 

東京に住んでいる12歳になる孫が、聞いてきた。

「ね、おじいちゃん。三陸ってすごくいいところだね。」
「昔から、こんなにいいところだったの?」

 

僕は答えた。

「いや、20年前までは、大したところではなかったんだ。」
「景色は同じように綺麗だったけど、観光客が多いのは松島くらいで、他はほとんどいなかった。」

 

孫が不思議そうに訊ねた。

「どうして今のようになってきたの?」

「うん、20年前の今日、この三陸で巨大な地震があったんだ。そのときに1000年に1度あるかないかという大きな津波があって、2万人くらいの人がいっぺんに亡くなったんだ。」

「そのときに、震災前に単に戻るんじゃない、震災前よりも遙かに良くなろう!と頑張った人たちが大勢いたんだ。おじいちゃんもその一人だよ。」

「みんな思ったんだ。この三陸を遙かに良くすることが、亡くなった方への最大の供養だって。」

 

僕は思った。

SANRIKUは素敵なところになったけど、これが終わりではない。

世界中には沢山困っている地域がある。
その地域を救うのは、その地域を愛する人たちだ、と。

 

ちょうど、20年前に立ち上がった僕らが、このSANRIKUを愛したように。

 

そして今、僕らは、世界中の困ったところで、SANRIKUの奇跡の復興を伝え、世界中を勇気づけている。