熱き情熱

「世界の牡蠣商人」を目指す

飛ぶ

2002年末に牡蠣のネットショップを開設してから、僕と牡蠣事業の出会いはスタートしました。
もともとITベンチャーとして創業したので、牡蠣の販売よりもITサービスの提供を目指していましたが、2007年から牡蠣事業に特化しました。

最初はそれほど情熱を持っていなかった牡蠣事業ですが、どうせやるなら日本一のネット牡蠣屋を目指そうと思い、全国を自動車で走り回っているなかで、3ヶ月くらい経ったころでしょうか、段々と牡蠣事業こそ我が天命と思えるような感情が沸き起こってきました。
牡蠣生産者が好きになり、牡蠣養殖場が好きになり、牡蠣養殖に使う漁船も、ロープなどの資材も浜を走る軽トラも大好きになっていったのです。
1日で最大1,400kmくらい(仙台から北九州まで)を自動車で走ることも、牡蠣生産者と会えたり牡蠣産地に行ける楽しみが原動力となっていました。
そしていつの間にか僕には、将来「世界の牡蠣商人」になりたいという思いがフツフツ沸き起こってきていました。

そんなとき、2011年3月11日、東日本大震災が起き、地元宮城や岩手の牡蠣養殖場はほとんど壊滅状態になった2週間後、復興かきプロジェクトを開始し、養殖復旧のお手伝いをしていましたが、段々と「真の復興とは震災前に単に戻るのではなく、震災前よりも遙かに素晴らしい状況になること」と考えるようになってから、三陸の生産者とフランス式牡蠣養殖を始めたり、かき小屋事業を進めたり、三陸オイスターフェスティバル牡蠣ノボリプロジェクト三陸カキ小屋パートナー制度などを立ち上げてきました。僕は震災を機に、三陸牡蠣を世界に拡げ、三陸牡蠣復興への貢献を目指しながら、同時平行で、世界の牡蠣商人の夢を追い求めようと思い始めたのです。

この同時に追い求めることが、他の方には解りづらいと見え、三陸牡蠣の真の復興を目指しているのに、どうして他の産地の牡蠣のために動くのだ、とか、逆に日本中の牡蠣を売っているはずが、三陸に力を入れすぎじゃないか、とか。さらには、地域貢献といいながら、実際は自社の利益を追求しているだけじゃないかと誤解されることもよくありました。今でもあるかも知れません。
実際、一昨年の三陸オイスターフェスティバルでは自社の負荷が重くても何とか開催しましたが、昨年は自社の体力が続かずやむなく開催できなかったり、他の三陸牡蠣関連のプロジェクトを進めるため、いつまでも自社運営のかき小屋の改装も出来ないなど、当社スタッフには辛い思いをさせてしまったかも知れません。それでも僕は、NPOではなく、企業であっても社会性を持つ事業を行うべきだという思いから、可能な限り、これからも三陸牡蠣業界への貢献を進めたいと思っていますし、今年、2回目の三陸オイスターフェスティバルの開催ができるように進めています。

このような背景として僕は、三陸牡蠣業界で起きていることは、実は日本全体の牡蠣業界の問題に通じていると思っているのです。三陸牡蠣のためと思い進めることが、同時に日本国内の牡蠣事業を考えることにもなり、また日本国内の牡蠣事業のためと思って進めることが、同時に三陸牡蠣の真の復興にも繋がると感じているのです。つけ加えて言えば、日本の牡蠣産業のことを考えて取り組むことが、やがて世界の牡蠣業界に影響を与えるものだと思っています。

つまり牡蠣を通して三陸を良くしようと思って取り組む経験が、日本の地域に、さらには海外の地域への貢献に何かしら繋がるのではないかとさえ思っています。

僕は、近江商人がかつて「買い手よし、売り手よし、世間よし」と「三方よし」を謳ったように、「お客様に喜んでいただき、生産者にも喜んでいただき、その結果売り手も喜べる」という当社の事業理念の「三方よし」を胸に、世界の牡蠣商人として、三陸牡蠣業界、日本の牡蠣業界、ひいては世界の牡蠣業界において、背伸びする以上のことに取り組んでいきたいと思っています。

確かに、これから世界を目指すには僕はもう若くはありません。
それでも僕は、牡蠣事業で会社を救われ、牡蠣事業から生き甲斐をいただいた恩返しとして、牡蠣事業を通して社会に貢献したいと思っていますし、同時に世界の牡蠣商人になりたいと思っています。