フィロソフィー

世界人たれ

僕が学生時代、ある宗教から学んだ言葉に、この「世界人たれ」があります。

つまり、日本人とかアメリカ人、中国人とか、○○人って言うから、「韓国人は○○だ」とか「中国人の○○が嫌だ」みたいなことを言ってしまうから争いが起こるわけで、みんな「世界人」というなら、国同士の争いが起きないという訳です。

もちろん、国同士の争いはそんなことだけではなく、経済的なもの、歴史的なもの、地政学的なものを背景にしていることも多いと思いますが、しかしその根底もやはり、○○人と□□人との違いに起因してしまうことも多いのではないでしょうか。

僕は昔、ボストンに旅行した際、クインシーマーケットで大道芸人が演ずるものを見ているときに、隣の人たちと目を合わせて笑い合えたことを思い出します。

ボストンは日本で言えば京都のようなところで世界中の観光客が来るところ。
そこで英語でもなく何語を話しているか分からない、彼ら彼女ら、肌の色も違うし、髪の色も違う。きっと生活習慣も違うだろうし、宗教も違うでしょう。

そんな彼らと、同じ大道芸人の演技を見て、同じタイミングで笑い合えることが、僕はとても嬉しかったのです。

あー、同じ人なんだな。
同じように笑い、同じように悲しみ、同じように感動できる。

そんなことは当たり前なのに、あれは○○人だ、と言った途端、心の中に大きな断絶が起きる。

そういうことが嫌だから、僕は日本人でもあるけれど、まずは世界人でありたいと願うのです。