熱き情熱

事業経営と社会貢献

僕は大なり小なり、企業というものは、社会性が必要だと考えてきました。

コンビニエンスストア事業や自動販売機オペレータ事業を行っているときは、地域の顧客に便利性、快適性を提供しようと思って取り組んでいましたが、1996年終わりに環境問題を気付きはじめ、そのままの事業を一生行っていくのは嫌だと思うようになりました。

地方の零細ながらも、当時年商5億の事業であり、利益率は低くても多少なりとも安定した生活でしたが、24時間煌々と電気を点け、毎日のように廃棄する弁当やオニギリが入ったゴミ袋を見ていると、これは間違っていると感じていたからです。僕がソフト開発会社からコンビニエンスストアで独立した3年後の31歳から32歳のときです。

ある時に、このことを人に相談しました。彼は、「あなたがその事業をしなくても、誰かがするでしょう、結局、同じではないですか」と言われましたが、それでも自分自身が当事者として環境悪化への加担者になりたくなかったのです。

僕は誰かのために何かしたい。社会の役に立ちたい。

小さいころから、朧げにそう考えてきていたので、幾ら利便性を高める事業であったとしても、将来に環境としてマイナスをつくる事業はしたくないと思い、1999年に別な事業を模索していました。

そして最初に考えて動いたのが、「ケナフ栽培」でした。森林破壊につながる木材を使用せずに紙を作る方法として、ケナフという成長の早い草を利用したものです。そのために製紙工場を走り回りました。売り先があれば、発展途上国で作ってもらい輸入できるのではないと考えたからです。

しかしコンビニエンスストアをやっている会社が、何故ケナフ?と聞かれ、資金もネットワークもない自分が出来る事業ではないと諦めました。

次に思ったのが、「風力発電」の風車建設です。

1999年の秋、僕はデンマークとドイツに風車の視察に行きました。
いわゆる風車群があるウィンドファームに圧倒されながら、よし、まずは一基でも宮城に風車を建てて、”自然と共生して生きていくことが大事であることを伝えるシンボルにしたい”と思ったのです。その風車の下で、環境を学ぶ場も提供したいと夢描きました。

当時、ITバブルで株式上場も夢ではありませんでしたので、目標は株式上場、そしてその時に創業者利益をいただけるなら、それで風車を建てたいと考え、たった一人、自宅マンションの一室で有限会社アイリンク(現 株式会社アイリンク)を2000年に創業したのです。

今思えば、ソフト業界経験もわずか3年しかなく、人的ネットワークもほとんどなく、よく創業したと思うのですが、当時はいつか風車を建てたい、という一心でした。もっとも、風車を本当に建てる目的なら、ファンドを作り、今でいう市民風車を考えれば良かっただろうと思ったのは、ずっと後になってからでした。

いずれにしても、僕は、会社というものは、何かしらの社会貢献を考えた目的が必要だと思い続けていました。

2011年の東日本大震災で被災した三陸沿岸部において、真の復興を目指し、牡蠣という一つの分野を通して、さまざまな新しい取り組みを行ってきたことも、そうした背景があったからです。

ただ一方で、こういう誤解をされることも多々ありました。

つまり、社会性とか、社会貢献だとか、三陸の牡蠣の復興とか言って、結局は、自分が儲けたいだけ、自分が良くなりたいから、そう言っているんだろう、というものです。

1年で3億円を集めて三陸牡蠣の復旧を目指した三陸牡蠣復興支援プロジェクトを行っているときも、人からは、あなたは公人なのだから公人らしく、と言われたこともありました。

僕は公務員でも政治家でもない、一介の中小零細企業の経営者。なぜそういうことを言われるのだろうとも思いました。

復興支援はスピードが肝心。僕は公的なところが養殖ロープ1本も漁業者に渡せないときに、やる気のある漁業者にどんどん養殖資材を寄付していきました。牡蠣ロープ、アンカーロープ、ケタロープ、アンカーブロック、アンカー、フロート、種牡蠣、フォークリフト、軽トラ、番屋建設資材などさまざまなものです。公的なところは漁業者全員に公平にしなければならなかったので何一つ渡せなかったのです。僕は一民間企業なので、やる気のある漁業者を贔屓して復旧活動を後押ししていました。

そうなるともちろん、当社のプロジェクトからの支援が厚いところと支援がいかないところがありました。しかしそれは止むをえないと思っていました。僕は公平を目指す公的なところではなかったからです。
僕は漁協や県など公的なところとは役割分担だと思ったのです。僕は偏った支援、しかしスピーディー。公的なところは遅いけれども公平な支援という理解でした。

その後のフランス式種苗生産、カキ小屋、カキノボリ1000本プロジェクト、ベトナムKAKIGOYA、三陸オイスターフェスティバル、カキ小屋パートナー制度、オーストラリア養殖資材販売、それらのプロジェクトは全て、自社よかれではなく、地域を良くしたいと思って取り組んだものです。

しかしそれもまた、人からさまざまなことを言われる原因となりました。すべての人に良い顔をしたい、人からあの人はいい人だと思われたいなら、そのようなプロジェクトなど立ち上げず、何もしないことが肝心だと知りました。

それが昨年末から今年にかけて、そうした悩みが消えてきたのです。人には、僕は人から何を言われてもビクともしませんから、と強がりを言う割に、実は敏感に人から何を言われるか気にする人間だったのが、少し成長してきたのかも知れません。

キッカケの一つは白洲次郎の言葉です。

「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人間に嫌われるように努力しないとちゃんとした仕事はできない。」
「リーダーたる人間は好かれたら終わり。7割の人間に煙たがられなければ本物ではない。」

白洲次郎は戦後、「従順ならざる唯一の日本人」とGHQに評され、プリンシプルを大事にした官僚であり実業家です。

僕は、僕なりに、自分の仕事をしようと思います。人に好かれようとせずに。

社会を良くしたい。世界を変えたい。

そう思いながら、いっぱいまわり道し、いっぱいサボってきて、多くの人の目を気にしながら、この歳になりましたが、それでも僕はこれから、今まで以上に「自分の進める事業で社会を良くしたい、世界を変えたい。」と思って進もうと思っています。

それが僕自身のプリンシプルだからです。

報道ステーション2012年